オリジナルタオルを作るなら《オリジナルタオル専門店 いとへん》
オリジナルタオル専門店いとへん 店長プロフィール

店長プロフィール

公開日:2017/07/24 最終更新日:2021/03/12

人が好き!笑顔が大好き!!オリジナルタオルで「がんばる君の夢を応援したい!」応援団長、いとへん店長ほかりんこと穂苅ちづるです。

善光寺のお膝元長野から、創業67年の信頼と経験と実績のもと、勝利を呼び込む「勝タオル」をお作りしています。 「勝ちたい!」「勝たせてあげたい!」タオルに込める選手と応援団の熱い想いを、元気いっぱいのエールにて、精一杯応援させていただいております。

応援タオル、オリジナルタオルの力は無限大! ほかりんスマイル全開でがんばっております!

ほかリン

誕生~幼少期

長野県は須坂市。代々受け継がれてきた田畑を、父が母が祖父母が守る、農家の三人兄弟(姉弟)の次女として産まれ育ちました。

元気の良さは母のお腹の中にいた時からのようで、予定日より一週間遅れで産まれたときは、「窮屈なお腹の中から早く出たいよ~」と(言ったかどうかはわかりませんが)動きすぎてへその緒が体中に巻きついて出てきてびっくりさせたそうです。
畑仕事が忙しかった母にとっては、よく飲みよく眠り、夜泣きもしなかった私は、ま~手のかからない親孝行娘だったようです。(笑) 風邪もほとんどひいたことがなく、田畑を駆け回り、健康優良児そのままにスクスクと成長。
4月生まれということもあり、いつも先頭に立ってはみんなを引っ張っていくような、元気で活発な男勝りの女の子でした。(おてんばともいう^^)

アタックNO1に憧れて、バレー部に入部。バレー漬けの中学時代

当時人気だったスポ根アニメ「アタックNo.1」の鮎原こずえに憧れ、中学ではバレー部に入部。 (彼女の必殺技「木の葉落とし」「竜巻落とし」をマジで習得したかったwww) 当時の監督は、いまやバレー界では知らない人はいないくらい有名になってしまった、おひげの監督「岡田隆安」監督。 (墨坂中(須坂市)と裾花中(長野市)の34年間、女子バレー部の監督として全国制覇4回、準優勝1回の実績を残された監督。) 当時はそんなことまったく知らないし、知るはずもなし・・・^^;)。 鬼監督のもと(バレー以外は楽しく優しい先生でした。と一応フォロー)、田畑を駆け回っていた少女の生活は一変。バレー漬けの毎日に変わりました。 背も高く、小学校の頃スポーツ少年団でちょろっとバレーをかじっていたこともあり、1年の新人戦からレギュラー入り。全国大会目指し、来る日も来る日も、朝から晩まで明けても暮れても練習練習の日々。まさに汗と涙とあざだらけの毎日でした。 ちょっとでも手を抜いたり、ミスしたりすると、ひとりコートに立たされすかさずワンマン。どのくらいやらされたか、、。 5分、10分、できるまで続くワンマン。ハアハアゼイゼイ、、、。「なにくそっ!」ってくらいついても足が体がついていかない。もうこれ以上動けなくなっても、立てなくなっても「立てー、立てー」って容赦なくボールがバンバン飛んでくる。 アタックNo.1の主題歌のように「♪苦しくったって~、悲しくったって~、コートの中では平気、なの!」なんて言っちゃあいられない。(全然平気じゃなかった。) ワンマンの度「鬼~!鬼~!」っていっつも叫んでました。(心の中で!笑)

全国大会初出場

2年の夏。ついに念願の全国大会初出場! 地元も大いに沸きあがり、新聞社も取材に来て「東洋の魔女」をもじり、「墨坂の魔女」と大きく紙面を飾ってくれました。

意気揚々と臨んだ全国大会でしたが、結果は一回戦負け。全国の厳しさと同時に、目標を達成してしまったあとのもろさを思い知らされました。
その悔しさと反省を踏まえ、翌年の目標は一気に「全国ベスト8」。全国出場はあくまで通過点! 当然練習もさらに厳しくなりましたが、「やらされるのではなくやってやる!」 部長として部をまとめながら、みんなでひとつの目標に向かって一切弱音を吐くことなくボールにくらいついていきました。 のちに母が言った言葉。 「試合は楽しみに観に行けたけど、練習はかわいそうでとても見ていられなかった。」と、、、(かもしれないね^^;)

二度目の全国大会 「全国ベスト16」 3年の夏。地区予選をぶっちぎりの成績で突破! 得意のサーブで14点連取したセットもあり。(当時は15点マッチ) 得意技はライト攻撃と速攻!相手のブロックを振り、セッターと息のあった早い速攻がバシッとコートに突き刺さった時は「オオ~!」という歓声が上がり、それがめっちゃ快感でした。 「去年の過ちは絶対繰り返さない!」と臨んだ二度目の全国。 1試合目、2試合目と勝ち進みベスト16に。 3試合目からは憧れの「東京体育館」に会場を移し、いよいよ次はベスト8をかけた試合。それまで以上の緊張感が走る。

1セットを取られ、2セット目。14-9でリードするも、あと1点が取れずまさかまさかの逆転負け! 「終わった・・・・。終ってしまった・・・」 ゲームセットのホイッスルと同時にコートに崩れ、大粒の涙がとめどなくこぼれ落ちた。 情けなさと悔しさと、そしてもうひとつ。約束をはたせなかったという無念の涙。

この大会の影には、実は予想だにしなかった悲しい出来事があったのです。 開会式前日「キャプテンのお父さんが亡くなった」という突然の悲報。 急きょ長野に戻ったキャプテン。キャプテン不在の試合を覚悟した私たち。 でも試合当日、彼女は告別式に出席することなくまた私たちの前に姿を現したのです。 「ベスト8に入ること。これがお父さんとの最後の約束だから」と。 大会期間中、応援席の真ん中ではずっと応援団長をしてくれていたキャプテンのお父さんの遺影が、みんなのがんばりを見守続けてていてくれました。

そんな大きな大きな悲しみを必死にこらえて臨んだ大会だったのです。 岡田先生自身も、「バレーはこれほどまでに人を強くするものなのかを、まだ中学生である生徒から教えられた」と、バレー人生の中でもこの年代のことは忘れられないと語っています。 目標に向かって努力することの大切さ。 最後の最後までけっしてあきらめないという強い精神力。 ともに泣きともに笑った仲間の大切さ。 忍耐力やド根性。 人に対する思いやりも優しさも感謝の心も、すべてバレーを通して学びました。 仲間とともにひたすら白球を追い続けた日々。ここが私の原点のように感じています。

全国大会初出場
全国大会初出場1
全国大会初出場2

高校卒業後、憧れの東京へ

中学時代生徒会副会長も務めていた手前、勉強もがんばらねば!とここでもまた負けん気発揮!地元の進学校に入学。
バレー部に入り、県選抜にも選ばれるも体に変調をきたしドクターストップ。現役を離れました。

高校卒業後、東京の短大に進学。 おのぼりさんにとって東京は見るものすべてが新鮮で楽しい毎日でした。2年では飽き足らず、ずっと東京にいたくて、短大卒業後はそのまま東京に残り高級アパレルブランド会社に就職。(全国のほとんどの有名デパートにテナントで入っているブランドで、当時、ご成婚が決まった秋篠宮紀子様がご婚約時代好んでお召しになっていらっしゃいました。) 本社勤務の営業マンを除いては、部長も店長も販売員も、社員の9割が全員女性!というウーマンパワーをメラメラ感じさせる会社でした。 面接時の元気のよさが効いたのか(どうかはわかりませんが^^;)、入り口にライオンが鎮座している日本橋の老舗百貨店に配属となりました。来客数も多く、月間売上は全国で常にトップを争う店舗で、接客の基礎から販売テクニック、言葉使いも学びながら、4年間販売員としての経験を積みました。 ファッションにも興味があり、もともと人と接することが大好きだったので、お客様と会話をしながらのお洋服を選びはとても楽しかったです。指名買いで来てくださるお客様もだんだん増え、似合うお洋服を提案しながら全身コーディネートでの平均客単価は10~20万。多い時では最高50万というときもありました。 入社2年目。雑誌の取材を受けたこともありました。

高級アパレルブランド会社に就職
高級アパレルブランド会社に就職1

結婚、家業手伝い、かわいい2児の母に

その後長野に戻り、夫と知合い結婚。
今の仕事である夫の家業を手伝うこととなりました。 結婚前、主人を紹介してくれた方から、「長年長野でお店やっててお布団やタオルを大きく売ってる商売屋の家だよ」と聞いていたので、てっきり店舗販売かと思っていた私。 「お!接客大好きだし、商売いいじゃんいいじゃん!」と店に立って接客する自分の姿を勝手に想像したりしてました。 が、実際は卸業。お相手は旅館やホテルや企業様。ひたすらタオルたたみに精出す日々。 時々ご近所や知り合いの方が娘さんが結婚されるのでと婚礼布団一式を買いに来られたりしましたが(卸だけにいい羽毛布団がめちゃくちゃお安く買えました)、店頭での対面販売ということはほとんどなくちょっと拍子抜け。(笑)

バブルがはじけたあとでしたが、長野オリンピック特需で県内の旅館・ホテルは忙しく、ちょうど羊毛布団から羽毛布団に切り替わり始めたころだったので羽毛布団の注文もたくさんありました。年末ともなれば企業様の名入れタオルの注文で残業残業で忙しかったものです。 結婚1年後に長女誕生(ハネムーンベビー^^)、その4年後次女誕生。2人のかわいい娘の母ともなりました。

結婚
結婚1
結婚2
かわいい2児の母

見かけによらず(笑)意外と手先が器用でミシンいじりが大好きだったので、子供たちが小さい時の洋服はほとんど手作り! おくるみ・ベビー服・よだれかけに始まり、スカート・ワンピース・ズボンにパジャマ、お人形の服にいたるまで、作れるものは何でも作ってあげました。子供たちは服はもらうものか、ママが作ってくれるものと思っていたようです(おかげでほとんどお金かかってません^^;)

中でも一番の大作は結婚式におよばれした時の「ミニウェディングドレス!」 本当は自分のウェディングドレスを作るのが夢だったのですが、結婚式前は思った以上に忙しく夢ははかなく(あっけなく)散りました。 その分もと気合を入れまくって作ったミニドレス。余り布でヘッドドレスやシューズアクセサリーもおまけに(^^) これには娘も大喜び! 下の子も着る機会があり「小さな二人のプリンセス」むぎゅ~ってしたくなるくらいとってもかわいかったです。

洋服はほとんど手作り
洋服はほとんど手作り

13年間に及ぶ介護

長野冬季オリンピック

仕事と育児のかたわら、80歳を過ぎる同居の養母の介護もつとめてきました。 長野冬季オリンピックに沸いていた頃、養母が体調を崩し入院が必要となりました。認知症があったため付き添ってほしいと病院から依頼があり、泊り込みで付き添い介護をすることになりました。当時長女は年長、次女はまだ2歳。おむつが外れたばかり。未満児で保育園に預け始めたばかりの頃でした。 病院でおばあちゃんに夕食を食べさせた後、急いで子供たちを保育園にお迎えに行き、家に帰って急いで夕飯を作って食べさせ、3人でザブンとお風呂に入り、翌日の保育園の準備と朝食の用意。あとは主人にお願いし夜9時にはふたたび病院へ。 夜中はおばあちゃんのベッド脇に借りた簡易ベッドで仮眠・・・。そんな生活が約1か月続きました。
保育園のおゆうぎ会も、長女の卒園式も病院からのかけつけ。 気が付けばいつの間にかオリンピックもパラリンピックも終わり・・・。長野県民でありながらオリンピックを間近で見ることもなく、私の長野オリンピックはほとんど病院で広げた新聞記事の中の出来事でした。

以降13年間、仕事、育児、介護とともに歩んできました。 気が付けば小さかった子供たちもいつしか大きくなり、長女も春から大学生となることが決まった3月。合格を見届けるかのように養母は安らかに目を閉じ天寿を全うしました。あとふたつで100歳でした。(誕生日が来るたび「あといくつで100歳だよ」と励まし続けてきただけに、100歳のお祝いしてあげたかったな・・・とそれだけが心残り) 二年後、元気でいれば100歳の誕生日には「おばあちゃん、100歳おめでとう!」と仏前に語りかけ、喜んで食べたであろうケーキを供えました。

ママさんバレー

ママさんバレー

仕事に育児に介護に慌ただしい日々でしたが、施設の力も借り、介護に少し時間に余裕が持てるようになった頃、「今しかない」とばかりに以前から誘われていたママさんバレーを始めました。 仲間とともに大きな声を出し、体育館を転げ回りふたたび白球を追いかける日々。 「やっぱりバレーっていいな~」と再びバレーにはまってしまいました。 ストレス発散も兼ね息抜きではじめたバレーでしたが、入ったところは60数チームある長野市の中でも常に優勝争いに加わるチーム。(年11大会中、9度優勝という年もありました。)週2回、娘たちから「部活並みじゃん!」といわれる練習で8年間、仲間とともにここでもまた全国目指して真剣にいい汗流してました。(^^) 生涯スポーツと思いお婆ちゃんになるまで続けたかったのですが、仕事が忙しくなり続けることができなくなってしまいました。

追っかけ、そして保護者会長

そんな母を小さい頃から見ていたせいか、長女も中学にあがバレー部に入部。(次女も) 「追っかけ」のはじまりはじまり!

長女が中3の時には、「部長の親にはもれなく保護者会長がついてくる」という特典付き(?)で、部員数50人近くにもなる大所帯の保護者会長をおおせつかりました。(ひょえ~!まさか娘が部長になるとは・・・) コーチ・監督との連絡のやりとりから、大会・練習試合時の配車当番やお茶当番の割り振りetc・・。週末にはいつもポットとシートを抱えて子供たちについてまわってました(^^;(ちなみにこの年は他にも2つ別の役員がかぶっていたため当時のカレンダーは、予定の書き込みでまっ黒け!) からだがひとつじゃ絶対足りないというくらい、さらに輪をかけて忙しさもハンパなものではありませんでしたが、「なんでもやるからにはとことん楽しく!」が私のモットー!!。
「せっかくやるなら楽しんじゃえ~!」と保護者もひとつになって超パワフルな大応援団を結成し、応援団長としてがんばっている子供たちを応援し続けてきました。 声がかれるまで声援をとばし、翌日は声ガラガラなんてこともしょっちゅう。自分のバレーの大会と重なった時には、試合の合間にユニフォームの上にジャージを引っ掛けて大会を抜け出し、娘の応援に行ったこともありました。 そんな追っかけも足かけ9年間。子供たちに楽しませてもらいました。試合の合間の保護者が集まってのお茶っこもまた楽しかったものです。 張り切って応援タオルや横断幕も作ってあげちゃいました^^

保護者会長
保護者会長
更北中学バレー部
屋代高校バレー部
広徳ジュニアバレーチーム
屋代高校女子バレー部

苦境からの脱却を図り、「ネットショップオープン!」

昭和23年(1948年)の創業以来、繊維品卸問屋として県内の旅館や企業様にタオルや寝具を提供させていただいてきた長野繊維興業でしたが、 長野五輪をピークに、以降観光業にも繊維業にもどんどんかげりが見えてきました。
もともと特段大きな脚光を浴びることもない細々の繊維業界ですが、時代の波とともに「このままでは・・・」の危機感が浮き彫りに。
うちも例外ではありませんでした。売上は下降の一途。なんとかしなくてはといろいろ知恵を絞り試行錯誤を繰り返してきました。 ちょうど創業55周年を迎えた時には、倉庫を開放し大創業祭を開催。この時、なんと100枚の羽毛布団を完売!! 「じっと座っていても始まらない!外に出てくる!」と自社プリントができることを強みとしたチラシを作り、名入れタオルを使っていそうな企業様にターゲットをしぼり、地図を片手に約3か月間、毎日飛び込み営業に出たこともありました。 アポなしの飛び込みだったので、門前払いだったりお叱りを受けたり、厳しいものもありましたが、めげる事なく持ち前の明るさで「早くて、安くて、安心、丁寧」をひきさげて10数社からご注文をいただきました。 その後インターネットが注目され始め、当時専務でアークスの青年部長をしていた夫が、2001年頃から青年部に呼びかけ講師を招きネットビジネスを勉強し始めました。

2004年、「タオル・寝具のいとへん」をオープン!本格的にネットショップを始動。 まだネット販売の走りの頃だったのでユーザーも少なくお客様も店側も恐る恐るの時代でしたが、その後ネット販売はまたたく間に広がり、手作り感満載のサイトでしたが、それまで下降の一途だった売上も上向きに伸びていきました。 お電話での問い合わせも増え、電話越しではありましたが、お客様と直接話をしながら接客できることに、接客大好きな私は密かに喜びと幸せを感じていました。 2011年には2号店「オリジナルタオルのいとへん」をオープン。オリジナルタオル部門を独立させました。 ここで思い切って私店長になってしまいました!ほかりん店長の誕生でもあります。 今までとやっていることは同じなのですが、店長が私に代わっただけで親しみやすさや問い合わせやすさが増したようで、お問い合わせの数が飛躍的に伸びました。(もっと早くから代わればよかった 笑)2015年1月15日、新装開店!サイトリニューアルしました!

ショップ名「いとへん」に込めた想い

アパレルや繊維品など繊維関係を扱う業界のことを、使っているその漢字から「糸へん」(糸へん業界・糸へん産業)と呼びます。
1950年頃、かつて紡績業や鉄鋼業など社名に糸へんや金へんがついてる会社が絶好調だった頃には「糸へん金へんブーム」と呼ばれる時代もあったそうですが、時代の遍歴とともに今ではすっかり斜陽産業となってしまいました。 とはいえ、時代が変わっても一本の糸が織り成すタオルや衣料品等の繊維品は日常生活において生活必需品であることに変わりはありません。
「長野繊維興業」という弊社の社名にも「いとへん」が入っています。「いとへん」を盛り上げたい!その思いは先代の社長の中にも3代目となる夫の中にもいつもありました。 繊維だけが糸へん漢字じゃない。長野繊維が大切にしているお客様との「縁」や「絆」もいとへん漢字。 いとへん業を盛り上げたい!お客様とのご縁や絆を大切にしたい! 「そうだ!いとへんにしよう!」 一本の糸はより太く強い綱となって、お客様との縁や絆に必ず繋がってがっていくはず。
そう願い、そう信じてつけた名前です。

出会いに感謝!ご縁に感謝!

石ころだらけの道もありました。つまづいて転んでもそれでも起き上がって前に向かって走ってきました。 いまにも朽ち落ちそうな吊り橋しかない川を、落ちないように必死で綱につかまりながら渡ってきたときもありました。 苦しいときも困った時も、どんなときも「笑顔を忘れずに!」を貫きながら持ち前の明るさで乗り越えてきました。 (そう!困難を困難と感じないほどの笑顔と元気だけが私の天然の持ち味ですから!) ネットショップもオープンして10年以上が過ぎました。 私自身も中学高校とバレボールをやっていました。 「鬼~!、鬼~!」と心の中で幾度となく叫びながらも厳しい練習に耐え(汗)、中学時代は2度の全国大会を経験しました。 親になってからも、娘たちの部活(バレボール)で、保護者会長という名の応援団長も仰せつかり、あっちにこっちに追っかけ三昧の日々を8年経験。ママさんバレー歴も8年。これも、娘たちから言わせると「部活並みじゃん!」の練習で、全国大会目指してがんばってきました。 選手経験も応援経験も、バレーを通して、仲間の大切さはもちろんのこと、応援の力がどれほど心強いものか、選手たちの力になるものかを身をもって経験してきました。

  • 「勝ちたい!」
  • 「勝たせてあげたい!」
  • 「力の限り精一杯応援したい!」
笑顔

お客様の応援の熱い想いは、ドストライク過ぎるくらいにダイレクトに伝わってきます! だからこそ、その想いに私も全力でお応えしたいんです! 「いとへんさんにお願いしてよかった!」 「穂苅さんにお願いしてよかった!」 「いろいろ問い合わせてみたけどここが一番対応がよかったから!」 「またぜひお願いしたい!」 お客様からいただく嬉しいお言葉は、何よりの喜びであり私の元気とパワーの源です。 「こんなに親身になってくれる業者さんいないです!見たことないです!」 このお言葉をいただいたときは、もう飛び上がらんばかりの嬉しさの極みでした。と同時に、「初心を忘れずに!」を教えてくれる言葉でもありました。 「仕事はものではなく人につく」 「商売は笑売」 常に心にある言葉です。 いとへんにしかできない細やかな対応、私にしかできない明るく元気でスマイリーな接客を目指し、タオル作りを通してこれからもずっとお客様に笑顔と満足をお届けしていきたいと思います。 最後までお読みいただき、ありがとうございました。 今日もまた、出会いに感謝!ご縁に感謝!